多摩送信所跡

≪ 相原遺産 ≫

denpatou 法政大学校の正門を入りトンネルを抜けしばらく行くと左側に多摩送信所跡の碑石があります。碑石には次の碑文が書かれています。また碑石のそばにはアンテナの支柱の基礎部分が遺構として保存されています。

■多摩送信所跡の碑石の碑文

二次世界第大戦末期に近い1944年(昭和19)、本土空襲の本格化に備え対外送信の確保が要請され、国際電気通信株式会社によって隠蔽送信所として多摩送信 所の建設が着手された。当時の東京都南多摩郡堺村相原と横山村寺田にわたるこの地に、アンテナ敷地74000 坪(244,000平方メートル)を確保し、高さ60 メートルの木支柱を立て、空中線六基を樹林にめぐらした。技術者、職員計50 名が勤務する局舎を点在させ、翌年4 月竣工し、5 月5 日から操業を開始した。当時、我が国の対外送信は、政府関係以外に同盟通信社のモールス電と日本放送協会が諸外国語で流す「海外放送」および「東亜中継放送」があった。これらの対外送信は、1945 年8 月10 日から15 日の間、日本政府のポツダム宣言受諾表明に際して歴史的な役割を果たした。政府の外交ルートとは別に、ポツダム宣言受諾に関するニュースを送り出したのである。ここにあった「多摩送信所」も木造、手動による回転式アンテナから電波を送ることによって、ポツダム宣言受諾の際に重要な役割を担い、1946 年11 月10 日、開設以来一年半で活動の幕を閉じた。本学の多摩校地は多摩送信所の跡地に位置し、発掘調査により一部の遺構も確認された。ここにその事歴を誌し、永く後世に伝えるものである。
1988年3月30日 法政大学

◆日本の戦後の平和は相原から始まったと言っても過言ではありません。したがってこの遺構は相原だけの遺産ではなく日本の遺産ではないでしょうか?

(あいとぴあ 32号)

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 昭和20年(1945年)8月10日から15日の間、日本政府のポツダム宣言受諾表明に際し、政府の外交ルートとは別(海外放送、東亜中継放送)にポツダム宣言受諾に関するニュースを送り出した送信所の跡で、法政大学工学部のそばにあります。
(「相原観光エリアマップ」町田市観光コンベンション協会 パンフレットより)

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相原遺産
 前号では有線の通信について書きましたが、今回は無線での通信に相原が関わったことを紹介します。
 1945年8月15日は太平洋戦争が終結し読者の中には玉音放送を聴かれたかたもいらっしゃることでしょう。
終戦にいたる数日間を再現すると、7月26日ポツダム宣言発表、8月6日広島原爆投下、8月9日ロシア参戦布告、8月9日長崎原爆投下、8月10日御前会議でポツダム宣言受諾を決定し中立国経由で連合国に通達、同日ポツダム宣言受諾の電波が多摩送信所より全世界へ発信される、8月12日連合国より降伏条件に対し回答、8月14日御前会議でポツダム宣言受諾を再度決定、玉音放送の収録、8月15日終戦。
 この多摩送信所が相原の字土ケ谷にありました。相原駅より法政大学行きのバスに乗って終点法政大学で下車すると、トンネルがみえます。そのトンネルをくぐってしばらく歩くと左側に多摩送信所跡の遺跡があります。約60mの木で出来た櫓のうえにアルミ線を張り巡らせた電波塔だったそうです。日本の戦後は相原から始まったのかもしれませんね。
   参考:相原保善会発行の記念誌 昭和・激動の中の相原より

(「いきいき町田21」第59号 “町田の風景「相原遺産」” として、相原まちづくり協議会が寄稿した記事)

 

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