諏訪加賀

 相原の秣場[まぐさば]
 相原の秣場については、「相原共有地沿革史」発行:相原保善会に詳しく記載されていました。

 秣場は、馬草場、草取場、刈敷場とも言われ、肥料、燃料、飼料、屋根葺の材料の萱を取る場所で、村民、周辺村によって共有されている 場所を示す。入会[いりあい]とも言う。秣場の利用権利を入会権と言う。七国、御殿は、上中下相原に宇津貫、大船を加えた5村の「村々入会」 であった。 町田市の地図をみると御殿峠(字名:殿丸)まで突起のように相原が伸びているのは、この秣場だった所です。

東京都町田市相原町3020

東京都町田市相原町

 ここをめぐっては、相原村と鑓水村との間で境界線をめぐって紛争が起きていたようです。 相原村の諏訪加賀は何度も鑓水村との折衝を行ったが物別れとなり、諏訪加賀は相原に有利な境界を示し実地検証を役人に願い出た。 役人は加賀が主張する境界を認めたが、加賀に向かって「おまえは山林が欲しいか、命が欲しいか」と問うた。 加賀は「無論、山林が欲しい」と答え、その結果、境界は加賀の主張が通り、加賀は杉山峠で処刑された。 その首は、元和七年五月五日行昌寺に運ばれた。

行昌寺にある諏訪家3代の位牌の裏面には俗名が記されている。
 永禄元年三月二十三日 初代 道斎
 慶長八年八月十四日 二代 安齋
 元和七年十月十九日 三代 加賀

 

 「あいはら」相原小学校創立百年記念 昭和50年6月 にも この事件が記されていました。 この峠付近一帯は、元相原の共有地であった。この共有地は、町田市と八王子市の入り組んだ地形になったおり、 この地形が、秘められた歴史の中に伝説の1頁を物語っているのである。この共有地が相原西端大地沢の次に字御殿の地番が 付けられている事と、七国六町歩余の共有地があったという事である。それは、相原農民にとっては斗争の場であった。取るか、取られるか、 死ぬか生きるかの問題であった。草刈り場を持たない農業は、飼料なしで、作物をつくることであった。毎年六月一日を草刈り日としてその日 あら草刈りが始まり、それを飼料にし夏の作物を作っていったと言われる。そうした農民の先頭になって斗争の場に立ったのが諏訪道斎であったという。 隣村との永い斗争の結果、隣村の土地を相原農民の草刈りの場としてしまったといわれる。 無力な代官はこの争いに対して何の打つ手もなかったのである。最後に役人の面目を保つ為に諏訪道斎を打ち首にすることによって解決を 図ったのである。時に元和七年(1621年)十月十九日、獄門場において行われたという。彼の位碑が行昌寺の位碑堂の中に忘れられた様に置かれてある。刻まれた文字が そのまま相原の秘められた、共有地の歴史であるかの様に。 (http://esprit.weblike.jpから引用)

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