天然痘撲滅に貢献しました。
大正時代の文献に『八王子を中心とする郷土偉人伝』清水庫之祐著があります。それには『始めて種痘を伝えた刀圭家青木得庵』と題し、得庵について末尾に、
「彼は文化11年8月21日に生まれ、通称武平、得庵と号した。
早くから医を本田覚庵に学び書は市川米庵に学んだ。・・・晩年下相原の組頭となって村治に努めた。慶応2年3月14日61歳で没し、青木家共同墓地に眠っています」
とあります。しかし慶応2年から数え61年前は文化3年になります。生まれた年代に誤記があったと思われます。得庵は15歳頃、下相原の青木家に呼ばれます。25歳のとき青木家当主易直の妹喜代に婿養子として入籍します。
得庵は相原(今の相原駅の西口)で医院を開業しました。息子の玄朴とともに種痘の技術を入手します。種痘をライフワークとします。ただ玄朴は早世してしまいます。得庵は天然痘撲滅の夢を叶えるため娘のヤスにのちの青木芳斎を養子として入籍させます。この当時得庵と芳斎が種痘をしてまわった範囲は、高座郡・津久井郡・相原地域と広範囲にわたっており数万人に種痘を接種したものと思われます。芳斎は坂下に回春堂を開業しています。
この頃はまだ牛痘種痘は黎明期であり大変な苦労があったものと思われます。
明治25年妻喜代は清水寺境内に『善寧児(ジェンナー)先生碑』を建立します。その裏面には青木得庵種痘普及為紀念』とありその功績を讃えています。
・善寧児先生碑 ⇒ こちら
・相原まちづくり協議会は、2014年10月12日(日)に開催された「相原ふれあいフェスティバル」において、『青木得庵没後150年記念』展示を行いました。その時の様子は ⇒ こちら