相原電話中継所

 神奈中バスで相原から大戸に向かう途中に「根岸」というバス停がありますが、このバス停はその昔「相原中継所」といわれていたそうです。この付近には行昌寺や夕焼け小焼けの中村雨紅ゆかりの中村家があります。
 時は遡り昭和12年。当時すでに国内の電話網は※装荷ケーブルによってほぼ整備されていましたが、まったく新しい方式である無装荷ケーブルで50キロメー トルごとに中継所(増幅所)を設ける方式が松前重義(東海大学初代総長)と篠原登(同大教授)によって考案されていました。この方式を使って世界で初めて 名古屋から大阪まで設置されました。また翌年にはこの方式で海を渡って旧満州国奉天までが開通しています。名古屋から東京(中野)にはその翌年の昭和14 年に開設されました。中野からちょうど50キロメートルにある相原に中継所が設けられました。画期的だったのは、装荷ケーブルでは難しかった1本の線に 10回線が得られるというものです。この時点で東京から満州まで高品位の電話線が引かれたことになります。大東亜戦争前夜で軍事的にも経済的にもこの電話 網の設置が急務だったようです。denwaCyukei
 この電話ケーブルは昭和40年代まで使用されていましたが、その後の同軸ケーブルや光ファイバーに取って代わられ、相原中継所の役目は終了しました。その名残が大地沢青少年センターの奥の広場の脇にあります。ケーブルが地上に露出しています。
   〈※ 装荷ケーブルはコイルを巻いたものを途中に挿入〉

(参考文献:昭和50年発行 -堺村誌-)
(「いきいき町田21」第58号 “町田の風景「相原遺産Ⅴ」” として、相原まちづくり協議会が寄稿した記事)

コメントは受け付けていません。