中村雨紅

 童謡「夕焼小焼」は大正8年(1919)中村雨紅によって作詞されました。雨紅は当時、叔母に当たる相原村諏訪神社宮司の中村家の養子となっていました。「夕焼小焼」の詞の光景は相原そのものです。大正12年養子縁組は解消され髙井姓に戻りましたが、終生、ペンネームは中村雨紅でした。
 (町田市観光コンベンション協会のパンフレット「町田市相原観光マップ」から)

 中村雨紅(なかむら うこう、1897年〈明治30年〉1月7日<戸籍上は2月6日> – 1972年〈昭和47年〉5月8日)は、詩人・童謡作家である。本名は、髙井宮吉(たかい みやきち)だが、出版物など一般的には高井宮吉と記される。東京府南多摩郡恩方(おんがた)村(現在の東京都八王子市上恩方町)出身。
 (ウィキペディア)

■夕焼け小焼けyuuyakekoyake_kahi

 夕焼け小焼けで 日が暮れて
 山のお寺の 鐘が鳴る
 お手てつないで 皆帰ろ
 烏と一緒に帰りましょう
 
 子供が帰った 後からは
 円い大きな お月さま
 小鳥が夢を 見る頃は
 空にはキラキラ 金の星

■「夕焼け小焼け」の誕生の地は相原町?

  「夕焼け小焼け」は、誰でもが口すさんだことがある有名な童謡です。作詞が中村雨紅、作曲が草川信です。この歌の舞台は八王子市恩方と云われていますが、実は相原町中相原地区との見方があります。このため、相原まちづくり協議会では「夕焼け小焼け」研究会を設置して、調査、研究しています。
 中村雨紅はペンネームです。本名は高井宮吉といいます。明治30年に東京府南多摩郡恩方村(現・八王子市)に高井丹吾氏の次男として生まれました。大正5年に青山師範を卒業のあと、日暮里の小学校の教師になっています。大正6年に南多摩郡堺村(相原町)中相原の中村武造氏の養子となりました。高井と中村のご両家は宮司職で、親戚関係にあります。高井丹吾氏の妹が中村武造氏の奥さんです。武造氏には子どもがなかったため、甥を養子に迎えたことになります。「夕焼け小焼け」の舞台は八王子市恩方が定説になっています。しかし、中村雨紅は昭和31年発行の「教育音楽」8月号で「『夕焼け小焼け』がどこで、どんな場合に作詞されたかについては、35、6年も前の事で、これもどうもはっきりした覚えがありません」としています。中村雨紅は20~26歳まで相原に戸籍がありました。
 われわれは「夕焼け小焼け」の舞台は相原町ではないかと思っています。その理由は次の3点です。
 第1は、中村雨紅が「夕焼け小焼け」を発表したのが大正8年です。養子で相原に来たのが大正6年です。当時、都心に下宿をして日暮里の小学校の教師をしていましたが、休みの時は相原町の中村家に帰っていたと思われます。相原町の風景を思い描いて、作詞したことは考えられます。その後、雨紅は中村家との養子縁組を解消しますが、それは大正12年です。
 第2は、夕焼け小焼けを発表したときは中村雨紅の名前にしていることです。高井性でなく養子先の「中村」性を使っています。なお、雨紅の「雨」は童謡の指導を受けた野口雨情からとつています。
 第3は詩の内容が中相原地区の風景に合っていることです。以前から中相原地区では、「夕焼け小焼けの舞台は相原のものだ」と伝えられてきました。古老たちは、今でも確信しています。その理由は、中相原から見る夕焼けがきれいであること、夕方になると、城山町の普門寺の鐘の音が聞こえてきたこと、また、夕空にカラスの大群が津久井方面に帰っていくことが、よく見えたこと、などです。歌詞の2番目にある「子供が帰った後からは、円い大きな、お月さま、小鳥が夢を見る頃は、空にはキラキラ金の星」というのはまさに相原の風景そのものです。
 中村雨紅が養子縁組を解消したのは、宮司職にならないことが、はっきりしたからです。解消と同時に大正12年に本城千代子さんと結婚しています。中村家では、その後、雨紅のいとこに当たる高井フクさん(武比古さんの祖母)を養女に迎えています。中村家は中相原町にある旧い家柄で、現在27代目の相原諏訪神社の宮司を努めています。中村雨紅は昭和元年に神奈川県立厚木実科高等女学校(現・厚木東高校)の教師を務め、昭和47年に厚木市で逝去されました。75歳でした。  (あいとぴあ 28号)

■「夕焼け小焼け」の鐘はどこの寺?

 中村雨紅が作詞した「夕焼け小焼け」の舞台は相原町であると、相原まちづくり協議会は夕焼け小焼け研究会を設置し調査しています。これは中村雨紅が「夕焼け小焼け」を作詞した時に中相原地区の中村家(諏訪神社の宮司)の養子になっていたからです。中村氏は後年になって「どこで、どんな場合に作詞されたかについて35、6 年も前の事ではっきり覚えていない」と語っていますが、おそらく夕方の帰宅時に、相原駅から中村家まで、歩きながら、美しい夕焼けの空、山に帰るカラスの大群を見ながら、鐘の音を聞いていたと想像されます。その場合、鐘の音は、どこの寺のものか、調べてみました。中相原地区の古老は相模原市城山町の普門寺の鐘がよく聞こえたと云っています。普門寺の鐘は第二次大戦の時、拠出しため、現在、ありません。また、相原町では、坂下の清水寺(写真)、丸山の長福寺、大戸の円林寺、大戸観音堂にも鐘があり、よく鐘の音が聞こえていたと思われます。  (あいとぴあ 30号)

『夕焼小焼』の碑

※『夕焼け小焼け』?『夕焼小焼』?  中村雨紅は『夕焼小焼』と表記しています。

■中村雨紅作詞の唄

 『夕焼小焼』以外に、中村雨紅が作詞し歌となったものです。『こんこん小兎』『つんつん燕』『峠の茶屋』を堺中学校の生徒が唄っています。

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